ヴィクトリア女王の時代とエドワード7世の時代

  1. 憧れの“ヴィクトリアン”と“エドワーディアン”
  2. ヴィクトリアン初期/1836年~1861年頃
  3. ヴィクトリアン中期/1861年~1885年頃
  4. ヴィクトリアン後期/1886年~1901年頃
  5. エドワーディアン/1901年~1910年頃

1. 憧れの“ヴィクトリアン”と“エドワーディアン”

作品の写真

昔の英国では、国王の名前がその時代の名前にもなっていました。

“ヴィクトリアン”とは、ヴィクトリア女王(在位1837~1901年)の治世、“エドワーディアン”と言えば、エドワード7世(在位1901~1910年)の治世を指します。

そして、時代の呼び名は「その時代に生まれた文化」の呼び名でもありました。“ヴィクトリアン”と言えば、女王の時代に見られた建築や家具、装飾などを差す言葉でもあるのです。例えばファッションで“ヴィクトリアン・スリーブ”や“ヴィクトリアン・スカート”という言葉がありますが、これはその時代に流行した、布地をたっぷりと使った華やかな印象を与える衣装を差します。

ヴィクトリア女王の時代において、英国は絶頂期を迎えます。彼女が統治した64年の間に、英国の領土は10倍となり、地球の1/4を統治したのです。4億人の人口を有する史上最大の帝国の成立は、芸術の発展にとっても黄金期でした。ヴィクトリア女王は芸術家を後援し、芸術家たちは貴族と同等の人間関係をもって、上流階級と交流したのです。

現在に伝わる宝飾品のデザインや技法の多くは、この時代に完成を見たとされています。

では、華やかにして激動の“ヴィクトリアン”から振り返ってみましょう。

2. ヴィクトリアン初期/1836年~1861年頃

ヴィクトリア女王は18歳で即位し、英国女王になりました。この時代、19世紀の英国は、現在のそれとは異なり、世界中に領地や植民地を持つ超大国でした。つまり、ヴィクトリアは幼くして世界最大の権力を持つ女性になったのです。

ヴィクトリアの夫は、母方の従兄弟・アルバート公子でした。2人は同い年で、出会ったのは17歳の時でした。ヴィクトリアとアルバートの叔父である、ベルギー初代国王レオポルド1世は、この2人の結婚を実現させようと、ヴィクトリアに対して頻繁に手紙を送っていたとされています。

しかし当時の英国王にして、ヴィクトリアの伯父であるウィリアム4世は、この縁組に反対します。

1830年に即位したウィリアム4世は、即位時65歳という高齢で子どももおらず、姪のヴィクトリアを暫定王位継承者としていました。

そんなウィリアム4世からすれば、レオポルド1世らが進めるヴィクトリアとアルバートの婚姻は「英国王室を乗っ取ろうとする」行動に見えたのです。当時の英国王は、ドイツ北部ハノーファー王国の国王を兼ねており、ドイツとの強い結びつきがありました。

ヴィクトリア自身も、3歳まではドイツ語しか知らないドイツ系の血筋でした。そしてアルバートも同じくドイツ系の血筋だったのです。ウィリアム4世がアルバートを認めず、英国人をヴィクトリアの夫にしたいと願ったのは、そうした理由です。

周囲の思惑が交差する中で、2人は出会います。

ヴィクトリアは、17歳のアルバートを「髪は私と同じ褐色、目は綺麗な碧眼、美しい鼻と口。顔の表情は魅力的だ。同時に善良さと甘美さと知的さを持っている」と日記で褒めるなど、気に入りますが、周囲がお見合いを進めることは気に入りませんでした。

しかし、周囲に推されて20歳のときにアルバートとお見合いします。アルバートはより一層美男となっており、確かな教養も有していました。ヴィクトリアはアルバートに惚れ込み、自分からプロポーズしたのです。

執務に追われる女王であるヴィクトリアは、新婚旅行ですらもウィンザーまでのわずか42キロで済ませるほどでした。

それでも2人の愛情は、文字どおり「2人を死が分かつまで」続きました。女王の馬車を見物人が銃撃したとき、アルバートはヴィクトリアを馬車に引き倒して守りました。こうしたことから、2人の絆は強くなっていったのです。

アルバートの父母はお互いに浮気をする夫婦で、離婚していました。アルバートは実母に会うことを禁じられていたほど、不幸な家庭で育ったのです。両親を反面教師にしたアルバートは、家庭を大切にし、誠実な夫であろうと務めました。夫婦仲は非常によく、9人の子が授かったほどでした。

当初、外国人と見られていたアルバートは、政治的な門外漢とされていました。しかし、ヴィクトリアの相次ぐ出産を契機にして女王の補佐役となり、枢密院のメンバーに加わると、爵位を持たない(結婚後17年目に王配殿下(プリンス・コンソートの地位を得るまで無役でした)事実上の君主となります。2人は共同して英国を統治するようになったのです。

幸せな2人を祝福するかのように、英国にも、素晴らしい祝福が降りました。

カリフォルニアやオーストラリアで興った「ゴールドラッシュ」により、英国には大量の「金」が流れ込んだのです。この豊富な「金」は、金細工の技術を飛躍的に発展させました。

この発達した金細工に、ルビーやガーネット、シードパールやタッセルを組み合わせたボリュームのあるジュエリーが主流になったのも、この豊富な「金」ゆえでしょう。

モチーフも、産業革命によってもたらされた人工的なデザインから、蛇や勿忘草などの「自然」をモチーフに人気が集まります。これら自然物をモチーフを、愛や悼みなどのメッセージを含んだジュエリーである「センチメンタル・ジュエリー」に使用することも人気が出ました。

このような自然物を意匠として用いることが注目されたことは、後のアールヌーボーのような「自然主義」的なデザインが主流を成す時代を呼んだとも言えるのです。

3. ヴィクトリアン中期/1861年~1885年頃

変化はある日突然訪れます。1861年12月、アルバートが病に倒れ、帰らぬ人となったのです。

ヴィクトリアとアルバートの幸せな結婚生活の終わりが、皮肉にもヴィクトリアン時代のファッションに大きな変化をもたらしたのです。

アルバートの死にヴィクトリアは深く傷つき、長きにわたる喪に服しました。

このため、ヴィクトリアに関わる人々も、国も、ヴィクトリアと同じく喪に服さなくてはなりませんでした。衣服から装飾品・ジュエリーまで、全てがアルバートの死を悼むものにしなくてはならなくなったのです。

ビクトリアの妻としての悲しみに対し、英国国民は理解を示しました。

この結果、流行ったのが「モーニング・ジュエリー」です。モーニングとは、朝(morninng)ではなく、悲しむ・悼む(mourning)の意。つまり、モーニングジュエリーとは、死を悼む事を示すためのジュエリー、という意味になります。

このモーニングジュエリーは、黒を基調に様々な取り決めがあったのですが、その取り決めを守りながら、細やかな細工を凝らした品になっていきました。

黒を基調としながらも、パールやダイヤモンドの使用は認められていました。

時期を同じくして南アフリカでダイヤモンド鉱山が発見され、大量のダイヤモンドが英国に流れ込んできました。この結果、カッティング技術の向上により現在のブリリアントカットに近い「オールドヨーロピアンカット」が発明されます。輝きを増したダイヤモンドは、より広く一般の人々へ普及するようになりました。

ヴィクトリアの喪は、10年以上続きました。

悲しみに沈み、公務へも姿を現さないヴィクトリアに、自身がヴィクトリア女王であることを突きつけ、立ち直る切っ掛けを作った人物がいます。時の首相ベンジャミン・ディズレーリでした。

ディズレーリは、女王を気遣い、励まして、公務への復帰を助けました。

この結果、悲しみに沈む妻ヴィクトリアは、女王ヴィクトリアとして復活し、当時、英国の植民地であったインドの皇帝に即位するのです。

ヴィクトリア女王がインド女帝の称号を得たことで、インドから金やパールなどの宝飾品や虎の爪などのエキゾチックな素材が輸入され、ジュエリーは一層豪華になってゆくのです。

4. ヴィクトリアン後期/1886年~1901年頃

即位から50年の年月を経たヴィクトリアは、70歳に近づこうとしていました。

彼女の治世の間に、英国は地球上の全陸地面積の1/4を支配する帝国となっていました。

この英国による植民地支配は、ヴィクトリアにとって「未開の国々を英国の枠組みに参加させることによって救済するための方法」でした。宗教も人種も違う数多くの植民地は、「女王陛下の臣民」としてまとまり、ヴィクトリア女王は「帝国の母」と慕われました。

このような絶頂期を迎えていた英国では、植民地からの莫大な富の還元により大量消費社会が出現していました。これによって、ジュエリーも大衆化が促進されたのです。

大衆化に対応するために、大量生産が必要となりました。しかし、大量生産で生産されるのは、安価はあるけれど、画一的で品質の低い品物。もちろん、この品々も大衆には歓迎されたのですが、その一方で、その状況を批判したデザイナー、ウィリアム・モリスたちは、生活を芸術にまで昇華しようという主張の元に「アーツ・アンド・クラフツ運動」を繰り広げました。つまり、生活で消費される日用品にも、芸術性を取り入れるべきだと主張したのです。

この「アーツ・アンド・クラフツ運動」によって、自由な発想によるデザインや職人の手業を重んじる技術・工芸運動が発展していきました。

こうした運動が行われている時期は、ヴィクトリア女王の喪が開けた時期でもありました。

人々はそれまでの「モーニングジュエリー」から、月や星、小さな花などの自然をモチーフにしたジュエリーに移行していきます。この人気のデザインに、オールドヨーロピアンカットとローズカットのダイヤモンドを組み合わせたまた、若い女性たちの間では、カラーストーンと組み合わせたハーフパールのネックレスやブローチが歓迎されるようになっていったのです。ブローチやペンダントが人気を博します。

また、若い女性たちの間では、カラーストーンと組み合わせたハーフパールのネックレスやブローチが歓迎されるようになっていったのです。

5. エドワーディアン/1901年~1910年頃

エドワーディアン作品の写真

母であるヴィクトリア女王が、長い治世だったので、エドワード7世が即位したのは、60歳でした。

おしゃれで社交的だったエドワード7世は、優れた外交センスをもっていたため、様々な外交局面を旨うまく乗り越えてゆきました。その結果、長年植民地政策などで対立していたロシアやフランスと友好的な外交関係を結ぶことができました。この業績を讃えて、エドワード7世は「ピースメーカー」と呼ばれました。

この時代のジュエリーはヴィクトリアンジュエリーの「重さ」や「硬さ」の抜けた繊細ですっきりとしたデザインが特徴です。服飾でも、レースが発展した時期でもあるからか、リボンやレース、自然物では月桂樹のモチーフに人気が集まりました。

また、これまでジュエリーの素材として使用されてきた金・銀に、新素材プラチナが加わったのもこの時期です。プラチナは粘りが強く、曲げても折れないため、繊細なデザインのジュエリーを制作する素材として適していますから、この長所を生かした「これまで実現不可能であった細やかなデザイン」を可能にしたのです。

こうして実現したモチーフは、宝石を細い爪で止めることも可能にしました。

ただ、プラチナを加工するには金や銀よりも火力の強いバーナーが必要だったので、細工職人ならだれでも、というわけにはいかなかったようです。

この時代によく使われた宝石類は、ガーネットやサファイア、ペリドット、カルチャードパール(養殖真珠)。繊細な細工に映える宝石は、どれも見応えがあります。


カンティーユにおける「ヴィクトリアン」→→

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